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日本的家族の肖像~映画「海街diary」を観た~

家族のなにもない、日常を二時間たっぷりと観せてくれる映画である。

4姉妹、全員美しいのでそれだけでも観ていられるのだが、全体を貫く清廉した空気感は小津安二郎の映画の系譜を感じる純然たる素晴らしい日本映画なのだと思う。

4姉妹ものと言えば、私はどうしても谷崎潤一郎の「細雪」を思い出してしまうのだが、場所も時代も階級も全く違うが、共通する日本独特の美しさみたいなものをどちらにも感じてしまう。

カンヌで高い評価を得たようだが、それは納得できる。この感じの映画は外国の監督が撮ろうと思っても難しいかもしれない。映画から漂う空気が日本的過ぎる。間の取り方、セリフの入り方が独特であり、かつ、4姉妹の役者全員がその世界のなかに完璧に溶け込んでいる。

こういう映画はたくさん観られた方がいいと思う。


違和感は私を掴んで離さずに、週末の夜の闇の中で輝いているのだ。

「私は言葉が好き」。

 

すごく大胆な表現である。

 

その言葉を、なんのためらいもなく、そのかわいらしい唇から吐く。

 

普通に言うなら「好きな言葉」が順当な並びであるし、「言葉」というものはそもそもそれ自体に好き嫌いがあるものではなく、人を人たらしめる1つの要素であり、元素的なものであると思う。

 

また、〜が好きという、表現としてはいたってシンプルで、誰もが使ったことがある表現ではあるが、「好き」という単語をかけるには、あまりにも身近に有りすぎる「言葉」。

 

日常の中にいきなり放たれた鳥のように羽ばたき舞い降りてきた異質な一文。

 

違和感は、私を掴んで離さない。

 

その違和感のある「言葉」と「好き」を繋げた所に彼女の面白さがあり、ただ繋げただけではあるが、その二つを繋げることで、彼女は彼女という人間を見事に表現させて、むくむくと立ち上がらせた。

 

「言葉」というものを信じる傾向が強いと言われる、ある意味すごく女性的な表現なのかもしれない。

 

しかし、それは彼女の本質を捕まえているように思うし、彼女は「言葉」というものを徹底的に信じているということを教えてくれる。


少しだけ歪んだ魂をもつ彼女が、「言葉」という道具を使って、少しでも美しいものを捕らえようとする。


言葉は美しいものの、そのもっとも輝かしい瞬間を捕らえる力があり、それは受け手の想像を喚起するという点においては、映像や画像以上の力を持ち、おそらく彼女はその力に魅了されているのではないかと思う。

 

きれいな目で、いつも通りのかわいらしい微笑みを浮かべながら、今日はいい天気ですねと言うように、さらりとその言葉を吐き、その言葉を受け取った私の胸に、深く沈殿していく。

 

彼女の言葉が私のからだの中で勝手に反芻していき、物事に対してのためらいのなさ、それが彼女の大きな魅力なのだという事に、改めて、今さらながら気づいた夜。

 

うむ。アルコールがまわっている。いい夜である。

文体練習

文体練習

 

 

 

 

 

 

【センス・オブ・ワンダー】子どもの教育、これがひとつの解なのだ、と思う。

諸事情により子どもと離れて生活している。

大体、1ヶ月、ないしは2ヶ月に一回子どもと会う。もう3歳になり、幼稚園に通うようになり、このゴールデンウィークに久しぶりに会うと、すっかり会話ができるようになっていて驚いた。完全に自我が芽生えている。

自分の考え、感じたこと、疑問点を24時間、寝ているとき以外はずっと文字通り濁りのない眼で、濁りきった眼の大人にぶつけてくる。

久しぶりに会うからだろうか、終始だっこもせがまれる。

こちらも久しぶりなのでついついだっこをしてしまう。お陰で今帰りの飛行機だが、腰が異常に痛くて、座席に座っていることがとても辛い。

その辛さを感じているなかで、レイチェルカーソンの「センスオブワンダー」という本を読んだ。

わずか54ページほどの本ではあるが、読後、なんだか興奮してしまい、今、このようにメモを残している。

この連休中に何度も感じたのだが、子どもと話をする。子どもが考えていること、感じていることをとらえようとすると、手から砂がこぼれ落ちるように、さらさらと逃げてしまうものがある。

おそらく、それがセンスオブワンダー。自分がどれだけ閉ざされた大人になっているのか、この本は、すごく優しい言葉で、強烈に問いかけてきた。

「子どもは天才」だとは使い古された言葉だが、体感値としてやはり、わかる。

そもそも扉が開かれている存在としてある子どもはすべからく天才であり、その扉が、真綿で何者かに、おそらく、総じて大人と呼ばれる存在にゆっくりと優しく閉じられていく事によって凡人となっていくのだと思う。感性の扉ではなく、知識の扉を優先することによって天才は殺されるのだ。広い意味で今、この瞬間にも多くの子どもは殺されているし、私たちも殺されたのかもしれない。

私たちは子どもに、もっと、聞くべきもの、見るべきもの、触るべきもの、嗅ぐべきもの、味わうべきものを感じ、そしてそれに対しての直感的なうちなる声を知るべきだと語るべきなのだと思う。

子どもにどういう教育をするべきなのか、知識は後からでもいい。なんなら後々詰め込んだって構わない。ただ、その知識を入れ込んだときに健全な萌芽がみられるように、肥沃な土壌を耕す事が親の教育なのだということをこの本は教えてくれる。

生きる力とは、土壌の豊かさであり、その土壌は大きくできさえすれば、死ぬまでその人の人生を支え続けてくれるものなのだ。

力強く生きることは、心に肥沃な大地を持つことだ。

自分の子どもが、生きていることがつまらないと自分自身が感じる、もしくは自分の人生に対して何も感じない、ただ時計の針が進むのを待つような、そんな無感動な人生を送って欲しくはない。この世界は豊かであり、貴重であり、有限であり、生き物に貴賤はなく、全ての自然に平等に価値があるのだということに気づいて生きる、そういう生き方をして欲しい。

この前テレビ「情熱大陸」で元朝日新聞の記者で電気を使わない生活をしているある人の放送があったが、こんな言葉がすごく印象に残った。

「私たちは何かを手に入れて幸せになろうとしている。モノ。お金。そして健康。でも手に入らなければ不幸なのか。「ある」幸せがあるなら「ない」幸せがあったっていいじゃない。そう考えると意外なほどに心は浮き立つ。人生は自由だ。そしてどこまでもひらかれている。」

今、私たちが追い求めているものとはけっきょくは社会が作った「価値があると多数決で決まっているもの」であって、それを追うことはレースを走る事であって、豊かに生きる事ではないのではないだろうか。

ただ、私はレースを降りる度胸もないということも事実ではあるので、先ずは出来ることから始めたい。

豊かに生きるために、私自身も、今からでも遅くはないと信じ、自分の五感とうちなる声に、子どもと同じように声を傾けていくように生きていきたい。

そして子どもには、扉が開いているかどうか、そこを意識して見守っていきたい。

たかだか54ページ、ものの30分程度で読了できる本ではあるが、教育や生きるための本質がつまっている本であると思う。レイチェルカーソン、素晴らしい。名著と名高い「沈黙の春」も読んでみようかしら。

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

人生はくだらないが最高で、だから生き続けるのだ~映画「ビッグ・リボウスキ」を考える。

たくさん映画を観る。

たくさん観た中で、何が好きかと聞かれたら、ほとんどの確率で通じないので言うのをやめようかと思うのだが、好きなものに嘘をつきたくないという考えのもと、必ず答える映画が「ビッグ・リボウスキ」。

コーエン兄弟の映画で、今度の5月にやる新作もすごく楽しみにしている。

コーエン兄弟の映画はどれも大好きなのだがその中でも一番はビッグ・リボウスキ

なんで好きなのかを考えてみた。

まずはただ単純に徹底的にくだらない。

登場人物が全員イカれているのだが彼らが繰り出すどうしようもない会話が素晴らしい。ニヤニヤしながら観てしまう。

登場人物はほぼ全員モデルがいるらしく、その事実にも驚く。(その中でもウォルターのモデルは映画以上にヤバイ拳銃マニアで、スコセッシのタクシードライバーのモデルでもあるらしい。)。また、ロンググッドバイという映画の影響を色濃く受けているようで、すべてのシーンにデュードが出ているとは町山さんの解説を聞くまで気づかなかった。

そういうマニア向けっぽい仕掛けもおもしろい。

ただ、それだけではなく、映画のなかに通して観られる人間への視点、おそらくコーエン兄弟の人間に対しての哲学みたいなものが強烈に反映されていて、徹底的にくだらなくて最高ということもそうなのだが、俺が思う人間てこうだよねという姿がそこにあるように感じる。

人間の滑稽さとか愚かさがすごく誇張されてはいるが表現されていて、実際世の中はそんな人たちで回っていて、ヒーローなんて現実にはいないんだよっていうことをちゃんと言ってくれている、ある意味人間賛歌的な感じがすごく心に響くのだ。

人間てかっこよくなくても生きていくしかないし、いい話はそんなに簡単には手に入らないし、誰でも変なこだわりがあるし、それを全て肯定してそれでいいんだよと言っている気がする。

立川談志曰く、業の肯定。

忠臣蔵で、浅野内匠頭の部下で討ち入りした奴らじゃない奴ら、逃げちゃった奴らに光を当てるのが落語、ということを読んだことがある。

この映画には、その言葉の世界がある。

そして、世界はそういう人たちで動いていると思う。

ビッグ・リボウスキを見終わったあとになんだこれ?っと毎回思う。

でも、そもそも、なんだこれ?=予定調和ではない非連続性、が人の一生であって、現実が最善ではないことは多々有ることなので、なんだかよくわからない事になったとしてもそれを悲観するべきではなく、もちろん諦観するべきでもなく、ただ動き続けることが重要で、動いても得てして答えは出ないし、そもそも正解がないのだが、それでいいじゃないというすごく人生に対して楽観的な視点にビッグ・リボウスキはたってるんだと思う。

ビッグ・リボウスキを通じて表現されているコーエン兄弟の人間観、その全部がおれの人生哲学にはまるのだなと思う。


単純に会話のくだらなさ、マニア向けの作り、出てるキャラクターの異常さにはまる、ということもあるのだけど、人生をとらえる視点にはまるものが大きくあるという事がこの映画をベストの1つに数える理由なのだ。

ロンググッドバイも観なくては!

昔からそう。けっきょく見つめるのがこわいのだ。

なんでそんなに本も読んで映画も見て、それなのになんで人の気持ちがわからないの?

そうではなくて、人の気持ちがわからないわけではなくて、ただ、人の気持ちを直視することがこわいのだ。

そこを直視したあとにある現実に対して処理をすることが怖くて、わからないふりをしているだけなのだ。

弱虫の処世術。

いつまでたっても愛せない。

「ヘイトフルエイト」観た。

とりあえず、長かった。。。

けど、体感値としては160分よりもっと短くかんじたかな。

音楽がカッコいいし、やっぱり脚本が良くできてる。

密室劇というか、狭い世界の中、会話で成立させてる映画って好きだからじっくり観れた。

サミュエルLジャクソン渋くてよかったな。。。

けど、タランティーノらしい映画ではあるけどし、タランティーノの映画は欠かさず観たいし新作出ればすごく気になるけど、やっぱり好きな監督ではないなと再確認。

なんか、たぶん、映画に求めてるものが違うというか、彼のマニアックな楽しみについていけてないんだと思う。

映画への方向性が違うんだろう。

もっと映画って心に沈殿物が残る方が俺は好きだな。

昔はもっと楽しめたけど、今はこういうの楽しめなくなってる。

でもまた新作出たって聞いたらいそいそと映画館に向かう俺がいることは間違いないんだろうけど。

「ヘイトフル・エイト」オリジナル・サウンドトラック

「ヘイトフル・エイト」オリジナル・サウンドトラック

この書は捨てずに、町にも出ずに、じっくり部屋のなかでイマジネーションを加速させるのだ。

日本に生まれ、日本で育ち、日本の会社で働いて、日本人と結婚して、日本人として年老いていき、最後は日本のお墓に入る。

なにも考えずとも、世界的視野で見れば日本人という属性になり、そういう見られ方をしているはずである。

けど、日本人てなんなんだろうか。

ほとんどそんなことを考えないのでよくわからない。

では、日本的なものとはなんなのだろうか。

これはわかる。

お寺、神社、桜、仏像、浮世絵、和食等々、たくさん思い浮かんでくる。

京都が好きで、よく行く。

京都の純日本的な雰囲気が好きで、行くとホッとできるし、一方で背筋が延びるような凛とした厳粛な雰囲気を感じることもあり、それにも日本を感じて気持ちがよくなる。

東京は生活の場所だ。

東京が好きかと言われたら好きではない。あらゆる欲望を満足させるという視点であればおそらく世界基準で見てもそうとう高いレベルにあると思う。たが、好きではない。

生きにくい。

生きていくことってこんなに大変なのかと実感させる。

その大変だと思う人々の思いが大きなエネルギーになってメガロポリスTokyoを動かしている気がする。

生き物としてというよりも、Tokyoという街を動かすためにいかに高性能な部品になるか、それを求められている気がしてならない。

たまに壊れた部品が出て、電車なんかを止めてしまうと、Tokyoの機能はストップしてしまう。

東京にはなんでもあるが、もはや、人が人として生きる場所ではなくなって来ているように思う。

物凄く話がそれた。

日本人というもの、日本的であるということ、それの答えがこの本の中にはあるように思う。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「日本の面影」。

ラフカディオ・ハーンはもともと新聞記者だっただけ、描写力と分析力が圧倒的に優れている。さらにその上に詩的な文章力も加わり、読んでいる人を明治時代の日本へトリップさせる。完璧なトリップ本。

旅行に行く時間がない。お金がない。安心してください。我々には小泉八雲がついています。

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)



どんなきれい事を言っても現代はお金がかかる世の中なのだ。



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村上隆展を観てきた。

もともと好きなアーティストではないのだが、仏教美術は好きで、150メートルの五百羅漢図と言われたら、dob君が好きではなかろうが、六本木ヒルズのマスコットをダサいと思っていようが、とにかく観てみたいと思い、森美術館へ向かった。

全然村上隆のこと知らなかったけど、かなり仏教色濃厚な作品が多い。

最初に並ぶのは円相をモチーフにした村上隆の自画像。

円相って禅の心じゃないですか。

むむむ。

いい意味で期待を裏切る入り方。

そこからも、達磨や伊藤若沖などを真似した現代的な作品がならぶ。

達磨関連はすごくよかったな。

想定通り、キャラクターものには全然はまれない。

キャラがたっていれば勝ちだみたいなことを村上隆は言っていたように思うし、それはある意味真理だと思うが、彼のdob君のキャラクターがたっているようにはあまり思えない。

dob君にうんざりし始めたところで、五百羅漢図が登場。



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すばらしい!

それぞれの幕の中で物語が完結してて、ストーリーのある絵がおれは好きなんだろうなと思った。

だから仏教絵画とか禅の絵とかも好きなんだろう。

五百羅漢図は大きさにも圧倒された。


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けど、この展覧会を通じて一番感じたのはアートってなんなんだろってことですよ!

村上隆を評して日本美術の翻訳者っていう人もいるようだけど、間違いなく上手に日本美術から着想を得てほとんどの作品を構築してるからなんだけどそれってアートなんだろうか。

海外でウケる理由はわかる気がしたが。

なんか、アンディウオホール展を見たときも同じような感覚に陥ったんだけど、かれも分かりやすいアメリカをモチーフにして作品を作って、その作品からは作家のこの一枚にかけた思いみたいなものを全然感じることができなくて、ただひたすらコマーシャルを見ているようでカッコいいけどただそれだけの印象だった。

村上隆も基本的には同じ感じがしたな。

商業主義の匂いが強かった。

おそらく村上隆は美的なセンスを多分に持つセールスマンなのではないかな。

けど彼自身、いいものをつくる、お客さんの期待を越えるためにはお金がかかるって言ってたけどそれはその通りで、その商業主義でお金を儲けて、彼の今の思いを形にしたのが五百羅漢なのであれば、ここまでの道程は間違いじゃなかったと思う。

あれだけは、作家の力とか思いを強く感じて、このためにお金を儲けてきたなら納得できるって感じだったかな。

それだけ圧巻の五百羅漢図でした。

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