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精神と時の部屋に入った私は人について考えた。

 

クリスチャン・ボルタンスキー -アニミタス―さざめく亡霊たち-

クリスチャン・ボルタンスキー -アニミタス―さざめく亡霊たち-

 

 

バイ!そろそろ終わってしまう!ということで、目黒にある庭園美術館でクリスチャン・ボルタンスキーの展覧会をいそいそと観てきた。

 

展覧会名は「アニミタス~さざめく亡霊たち」。

 

アニミタスとは、(小さな魂)という意味のスペイン語のようだが、その展覧会のタイトル通り、生と死を感じさせる展示だった。

 

順路通りに廻り始め最初の部屋に入ると鏡が。若干ナルシスト気味の私は鏡があると自分を見てしまうのだが、そうするとなにやら女性のかすかな声が聞こえだす。あっ!鏡見てるのばれた!ナルシストって陰口言われたかも!!と、ちょっと焦るがよく聞くと壁から女性の声でささやきが聞こえる。なるほど、演出。さっそく亡霊が囁き始めたのだ。これはもっと暗く、人の少ない時間に来るべきだったなと思いつつ、あらためて鏡を見直し、心を整えて館を廻る。

 

ささやきがついてくるような感覚になる。怖いぜ亡霊。明るくてよかった。

 

2階に上がると囁きではなく、なにやら一定のリズムで音が聞こえてくる。

 

音に誘われて部屋にはいると、そこは心臓の音を暗い部屋でながし続け、その音に合わせて赤色電球が点滅する作品の世界。世界中の人々の心臓の音をサンプリングして永遠に繋ぎ合わせている。

 

当然のように、人によって心臓の鼓動が違う。早い音、遅い音、大きい音、ちいさい音、リズミカルな音、不整脈かと疑いたくなるような音、力強い音、弱々しい音。真っ暗な部屋のなかで、音に合わせて点滅する赤色電球の光が部屋にかすかな光を届けている。老若男女、なもない人々の心臓の音。もし、この音が止まり、この赤色の光が届かなくなればこの人は死ぬ。生きているということはなんとシンプルなのだろうか。

 

なんとなく、この部屋でぼーっとしてしまう。

 

他の観覧者は入れ替わり立ち替わりこの部屋に入ってくるが、私はひたすら動かない。

 

動かない。動かない。動かない。

 

というより、動けない。

 

母体の中はこういう感覚なんだろうという気持ちよさも若干あるものの、なにやらものすごく不安な気持ちになっている。

 

この不安に襲われる感覚はなんなのだろう。

 

この作品が、誰しもが唯一無二の「人」という存在であるということに対しての明確な証拠の提示であるとともに、シンプルに生きてシンプルに死ぬという、時間とはこの鼓動であるという、もうひとつの明確な真実をこのシンプルな仕掛けのなかでいきなり理解させられ、死ぬということが目の前に立ち上がった。「人」の貴重価値に感動するとともに、「人」は死ぬという事実に直面させられるこの部屋を私はまさに「精神と時の部屋」と名付けたい。ここで座禅を組んだらたぶんなにかが開ける。

 

心臓の鼓動を後にしててくてく第2展示場まで歩く。

 

今回のメインである「アニミタス」「ささやきの森」にたどり着いた。

 

中に入ると藁の匂いとともに風鈴の音が聞こえてくる。

 

両面が映る画面の片側は砂漠に何百という風鈴が揺らめいている映像。もう片面は山の中腹、森の中で数百の風鈴が揺れている映像。

 

これはなんだろう。

 

理解する前に、感じてみようと思い、イスに座り、じっと森の映像を見てみる。

 

なにかを表しているとしても理解はできないのだが、ただひたすらに気持ちがいい。ここならずっといられると言っていた友達がいたが理解できる。心が空になる。空になることを許している。そういう空間だと思う。

 

あとでボルタンスキーのインタビューを読むと、砂漠は死者を悼らう場所で森は人々が願いを祈る場所だとのこと。

 

作品よりも伝承の方が残るとのこと。

 

ふむ。話がデカイがそういう考えもあるねと思わせる。

 

存在しているらしいということ、かつて存在していたらしいということ、そういうことを語る伝承って大切な価値があると思う。「見た」ではなく、人々が知っているということの価値。それを創造してるのかな。

 

先程の心臓の音により不安に駆られた心も、神話伝承の世界の中でひたすらに癒されてこの展覧会は終わる。

 

彼のインタビュー動画を見ると、最後にかれは言っている。

 

誰もが尊いが、誰もが三代で忘れ去られる。

人類は分類することで人を殺してきた。

 

確かにな。なんて思いながら帰り道のドトールでコーヒーを飲んでいる。

 

この店にいる人たちも全員それぞれの心臓の音があると思うと、なんだか他人が立体的に見えてくる。

 

ボルタンスキー。

 

みんな人生の早いうちにあの部屋に1度は放り込まれた方がいいのかもしれない。

 

そうすると、少しはまともな世の中になるかもしれないななんてことを考えながら、私の休日は終わろうとしているのでした。

 

 

 

我々はどこから来て、どこへ向かうのか。

関野吉晴さんの「カレーライスを一から作る」という映画を観てきた。

 

なにかを自分で一から作り出すということに関心を持っている友人に、たぶん好きだろうなと思いこんな映画があるよと教えたら、ぜひ行こうという話になりポレポレ東中野へ。

 

約束の時間を間違えて、遅れて待ち合わせ場所のポレポレ東中野上のカフェに入ると、お店が作ってくれたカレーライスを食している友人。私もすかさずお店が作ってくれたカレーライスを注文。誰がどう作ろうが、お店で出てきたカレーライスは基本的に美味しい。不味いカレーライスというものに出会う方が難しい。

 

お腹を満たし、いざ地下の映画館へ。

 

意外と混んでいることに驚いたが、せっかくだし一番前に座る。

 

関野吉晴ゼミの授業として、カレーの材料となるもの、米、肉類、じゃがいも、ニンジン、タマネギ、ウコン等々、塩に至るまでほぼ一年かけて学生たちが作り、最終的には自分達で作った器とスプーンで食すまでをまとめたドキュメンタリー。

 

自分の大学の時もこんな感じの友達いたなとそういう観点で観てもおもしろい。

 

映画のなかで、グレートジャーニー関野吉晴さんは話す。

 

「卒業してからもっとも大変になるであろう美大生に今から生きるための方法を学んで欲しい」

 

関野ゼミの学生は話す。

 

「食べるために育てたから殺していい、ペットとして育てたから殺さない、という人間が決めた中で判断するってどうなんだろう」

 

「化学肥料を使いたい」

 

屠殺場の人は話す。

 

「私はかわいそうだと思ったことは一度もありません。ペットの猫が死んだときは夜中2時に庭に埋めました。取り乱したんだと思います。」

 

カレーライスのなかに入っている自分で育て、絞めた鳥を食しながら学生は話す。

 

「パサパサしているが味はいい」

 

映画が終わると関野吉晴さんが登場し語る。

 

「自分で問いを立てて、自分で答えを見つける事が大切」

 

昔、文庫本の紙は何でできているのかについて疑問を持った学生が出版社に問い合わせるところから始まり、最終的には原産地の環境問題にまでたどり着いたとのこと。

 

自分自身で問いを立て続け、その問いに対して体感することで答えを出し続けてきたであろうグレートジャーニーがいうと重みが違う。

 

彼の美大生に体感して欲しいという話を聞いて、話題になったがこの前NHKスペシャルでやっていた宮崎駿特集のあのシーンを思い出した。

 

新しいCGの技術が出来たと、意気揚々と宮崎駿に見せるdwango川上さん。

 

頭を足のようにして動くゾンビのようなCGを見たあとに、生命に対する尊厳を全く感じない、僕はこれを採用しようとは全く思わない。極めて不愉快です。と感想を述べる宮崎駿

 

困った顔で、これは実験なので、と釈明する川上さん。

 

どこに行きたいんですか、と追い討ちをかける鈴木敏夫

 

人間と同じような絵がかける機械を作りたい、と答えるdwangoの人。

 

ここに無いものはおそらく「体感」と「思想」なのではないだろうか。

 

後生に残る芸術は、作り手の体感や思想を内包しており、単純なカッコいいだけのものに芸術的な価値は無いと思う。

 

芸術家は体感すること、考え抜くことで、その作品に見た目以上の価値をもたらすのではないだろうか。

 

例えば、本物の職人さんが作る椅子と、大量生産で売るためにデザインを考えられた椅子とでは価値が違う。職人が人が座るということはどういうことなのかと徹底して考えたその思想の結果としてデザインし作り出された椅子には見た目を越えた、人間への優しさが内包されてそれが価値になっているように思う。

 

優しさ、それが価値になり、それに洗練されたデザインがのり、それが芸術となるのではないか。

 

音楽を考えたときに、プレスリーが初めて録音した曲はザッツオーライママ。お母さんへのプレゼントとして録音したらしい。そこにはお母さんという存在への体感と優しさがあり、だから後生にロックンロールは残った。

 

dwangoのCGに体感も思想もはなく、ただ真新しいだけで、そこに宮崎駿は怒ったのではないだろうか。

 

カッコいいだけのものに意味はなく、それをなぜ形作ったかに意味がある。

 

友人は、食べるということにどんな意味があるのか、我々は何のために食べるのかを考えたいと言っていた。

 

細胞が入れ替わって生きている生き物としての人間は、その細胞を作るために食べることが必要なのだが、ではなぜ何種類も料理が必要で味が必要なのか、この栄養がいいと言うが、何のためにそれが必要なのか、そういうことをもっと知りたいと言っていた。

 

それはすごく大切なことのように感じる。

 

「食べるために育てたから殺していい、ペットとして育てたから殺さない、という人間が決めた中で判断するってどうなんだろう」

という学生の言葉。

 

育ててきた鳥を本当に殺すのか、生殺与奪の権利を保有するかのような議論の中でふと出てきた言葉。

 

人間はなんて偉そうなんだと気づかされた言葉。

 

ただ、それは必要だからであって、では何で必要なのか、その事を理解することで、それは偉そうなのではなく、必要に迫られているからこその不可避の行動として理解することで人間と食べ物は同じ土俵に立つような気がする。

 

人間が偉い偉いと勘違いするのでなく、生き物に貴賤はなく、すべてを平等にとらえるために、食べるということを考えることは大切なことなのかもしれない。

 

一からすべてを作り出したカレーライス。はっきりいうと本当に不味そうだった。

 

お店で出てきたら、一口食べて残すような気がするし、とりあえず出された瞬間にこれカレーライスですかと聞くと思う。

  

お店の美味しいカレーライスから、ここまで考えを深めることはないのだが、美味しいということに対して疑問を感じ、なぜ美味しいのか、なぜ美味しい必要があるのか、そういうことを日々突き詰めて考えていく、すべてがそうで、きっとそれが学ぶということなんだろうし、それが生きる力になるんだろうと思う。

 

問いをたてる。

 

そしてその答えを考える。

 

一年かけて作った珍しく不味そうなカレーライス。

 

ただ、そのカレーライス1つから、ここまで沢山のことを考えさせたこの授業、このドキュメンタリーは素晴らしいと思う。

 

学生の心も私の心も満腹だ。

 

グレートジャーニー探検記

グレートジャーニー探検記

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもの時間

子ども達に会ってきた。

 

3歳と5ヶ月になる息子。

 

生後5ヶ月の娘。

 

純粋であることの怖さと美しさを併せ持つことが子どもの特徴で、その純心さに邪心だらけの大人な自分はの心がどんどん洗われていく事を体感した。

 

大人ができて当然のことが出来ずに、大人が出来なくなってしまったことを平然とこなす息子。

 

この子をおんぶして、札幌駅からすすきのの交差点までてくてく歩き、背中から大きな声で、「ケンタッキーはおいしいぞ、ほっぺたが落ちそうだ」と歌いたい続ける息子の声が聞こえる。幼稚園の帰りに迎えに行き、水族館に行った帰り道。ケンタッキーが食べたいと、せっかく札幌まで来たのだからそんなものは微塵も食べたくなかったが、そんな歌まで歌われたら行く以外に選択肢はなく、夕暮れに染まる札幌の街で、周囲の微笑ましいと感じてくれているのか、嘲笑なのか、様々な笑い顔を正面で受け止めて、息子と二人、てくてく歩く。

 

初めての二人だけで外出。

 

東京で、ずっと思い描いていた二人だけの旅。

 

本格的な旅に出るのはまだまだ先だが、まず第一歩は隣り町の水族館。

 

魚がさわれるコーナーで、怖いからとヒトデしか触らずに、お父さんはヤドカリ触ってとよくわからないおねだりをされて、普段なら触りたくもないが、臆病者だと思われたくはなく、息子の前で張り切る父親とはこういうものかと思いつつ、平気な顔してヤドカリを触る。満足そうな息子の顔を見ることが、何よりも嬉しく思う。手が生臭くなることなんてなんてことはない。

 

赤ちゃんの時から絵本だけはずっと読んできた。

 

そのかいあってか、おそらく3歳児としては語彙力が豊富な息子。

 

花火を見たときに、沢山の色が夜空を染めているねと言った時はその詩的な表現に驚いた。

 

お母さんに怒られて、ごめんなさい、もうしません、絶対にしませんから許してください。と、ひたすらに謝り、許されたとわかった瞬間にイエーイとはしゃぎだす息子。

 

お母さんの機嫌が悪いと思うと、お母さんかわいいね、お姫様みたいだね。とすかさず機嫌を取り出す息子。

 

一緒に住んでいないのに、性格は今のところ自分にそっくりで、人格とは環境が決めると思っていたが、どうやらDNAの力は凄まじいらしいと、将来を暗示させ不安を感じさせる息子。

 

家では久しぶりの再会なので、ひたすらに甘えてくる姿しか見せず、幼稚園ではちゃんとできているのか不安になり、こっそり覗きに行くと、意外にも大人しく席に座り、ちゃんと先生の言うことを聞いていた。ただ、出欠の時に、名前を呼ばれてみんな、はいっと片手を上げてお行儀よく返事をしていたが、一人だけ両手を上げて、にゃー、と返事をしているところなんかは、授業中になんとか笑いを取ろうと常にタイミングを見計らっていた自分を思い出す。

 

家の近所のセイコーマートの前にあるベンチに座りながら、のんびりしましょうよと言う。

 

ガチャガチャの前を通るときは必ずおねだりさせるので最早恐怖。

 

昆虫が大好きで、お父さん虫見つけてと言うので、蟻がいるよと教えてあげると、すかさず踏み殺し、蟻大作戦なんだよと、ホロコーストを思い出させて、ユダヤ人が聞いたら激怒しそうな事を言う。

 

恐竜が好きすぎるので、ひょっとしたらいけるかもと、シンゴジラを観に行ったが、ゴジラの第一形態をみて、あの恐竜だるんだるんだね、と巧みな描写を口走る。さすがに一時間がげんかいだったが初めての映画がシンゴジラだったことをかれはこの先覚えているのだろうか気になるところだ。

 

この1週間、すごく沢山の思い出ができた。この子は今、生きていること、ただそれだけで楽しく、嬉しく、悲しく、悔しく、なんの打算もない感情を躊躇いなく表出させて時間を過ごしている。それは混じりっけのない、純粋な時間であり、この時間は、大人になった今ではもう感じることが出来ない美しい時間なんだと思う。その素敵な時間をほんの少しではあるが共有出来たことが自分のかけがえのないものになり、心の奥深くに沈殿していく。

 

背中にじっとりと汗をかき、やっとたどり着いたケンタッキーすすきの店。

 

美味しそうにチキンをほほ張りながら、ふと動きが止まり、小声で、このお店はトイレがあるかな、うんちがしたい、とこっそり教えてくれる。何となく、羞恥心は生まれてきているらしい。

息子をトイレにつれていき用を足させる。

 

昔はこういう親子連れを見ると大変そうだなと冷ややかな目で見ていたが、自分がその立場になってみると、粗相しないようにすることに夢中になるとともに、こういうところからも成長を感じて嬉しくなる。

 

この子がどういう大人になるのかわからないし、人生の責任は自分で負うべきで、最終的な決断はこの子に委ねるべきなので、最終局面で自分が口を出すことはないと思う。ただ、この子が望む人生を自分の都合で歩かせることが出来ないようなことはしたくないし、絶対にそうならないようにしたい。

 

誰かのために人生をかけられるかと聞かれたら、昔なら躊躇わずに無理だと思えたが、今は躊躇わずに、もちろん、と答えられる。

 

そこだけは純粋に思えるから子どもとは恐ろしい。すぐに泣き、すぐ体調を崩し、すぐ怪我をする。か弱く、庇護がなければ絶対に大人になることは出来ない。ただ、くそみたいな大人に対して、信じられない力を持つ偉大な存在でもあるのだなと、しみじみ感じた夏休みだった。

 

札幌はもう、少し肌寒くなってきている。

 

東京は大人の街で、自分はそこでもう少し戦おうと思う。

 

DVD付 恐竜 (講談社の動く図鑑MOVE)

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禅とはなにかをしろうとしたが、よくわからなかった。

なぜと訪ねられたら答えようもないのだが、昔から「禅」というものにひかれている。

 

何度か自分自身で体感してみようと思い、禅を組みにいったこともある。

 

始めて禅を組んだとき、早稲田にある曹洞宗のお寺さんだったように記憶しているが、夏のまだ暑い夕方から真っ暗にした部屋のなかで、壁に向かってひたすらに座禅を組んだ。

 

半目を開けながら、斜め下に視線を落とし、心のなかで数を数えるといいという教えのもと、ひたすらに数を数えた。

 

部屋の中には私とお坊さんともう一人の体験者のみ。

 

静かである。

 

早稲田という土地は元々そこまで騒々しい土地柄でもないが、それでも都内でここまで静かな空間があるということに少なからず驚いていた。

 

当時の私は心に様々な悩みごとを抱え、一方で、悩みがあるということはわかっているものの、それに対して考えるという時間がなく、ただただ壁のなかに押し込まれているように感じており、生きにくさだけを感じていた。

 

禅を組んでどれくらい時間が経過したのか、ふとからだが宙に浮くというか、楽になる瞬間があった。終わったあと、なぜだかわからないが、壁が無くなったような気持ちになり、すごく心が落ち着いた。

 

あの体験をもう一度味わいたく何度か禅を組んでみたが、特にそういったことは訪れない。彼女と組みにいったときは邪なことばかり頭に浮かんでしまい、なにも集中出来なかった。

 

鈴木大拙であれば、私がなんで禅にひきつけられるのか、あの楽になった体験はなんだったのか、その答えを教えてくれるのではないかと思い読んでみた。

 

正直に告白すると、内容を理解することが出来なかった。

 

難しい。

 

唯一心に落ちてきた言葉は、

 

「われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きるからである。われわれは理解の行為と意志の行為とを歴然と区別すべきである。前者は比較的価値の低いものだが、後者は一切である。」との言葉。

 

もう少し、鈴木大拙の本を読んでみたい。よくわからないながら、何かある気がしてならない。

 

ちなみに金沢にある、鈴木大拙記念館は最高に素晴らしい建築物。静的な心を建物にしたらああいう建物になるんだと思う。禅的空間に包まれたければ一人で行くといいと思う。

 

けっして彼女と行く場所ではない。

 

禅とは大前提として自己を見つめまくる行為ということで愛を確かめる事ではない

 

 

禅 (ちくま文庫)

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餅は餅屋で、すべての道はプロに任せ、素人は黙って見ているべきなのだ。

仕事はなんでもその道のプロがやるもので、その自覚がないものは退くべきであるし、また、太刀打ちできないとわかれば、自分がプロとして生きていける別の道を見つけるべきであると思う。

今回の選挙。

定番になりつつある、池上彰の選挙番組を観ながら、やはり日本の先行きに不安が大きくつのる。

これから勉強しますの連続。

本当にやめて欲しい。

憲法を変えたらダメだとは思わないが、自民党の案はダメだと思う。あんな全近代的なものはない。いつの思想だよと思う。しかし、それが実現する第一歩目が動き出してしまった。

選挙に行かなかった人、責任取れないでしょ?選挙に行けよ、投票率のこの低さってなんだよ。

日本の経済に不安はないの??

教育はこのままでいいの??

若者の声は誰が反映させるの??

この国でこのまま生きるのが怖くないの??

ソウカと日本会議の意見しか通らなくなるじゃん。

おれはとにかくプロに出てきて欲しかったし、無記名でも投票することに意味があると思うので、みんなに選挙に行ってほしかった。

経済の見通しをたてて欲しかったし、日本はまだ大丈夫なんだと思いたかった。

けど、今回でいよいよダメかもと強く思った。

いまだに今井絵理子朝日健太郎なんかが当選するような危機感の無い国はダメだ。彼女や彼を否定するつもりは無いが、この道のプロでは明らかに、無い。

おれの先輩がこんなの文章をSNSにアップしていた。

「今回の選挙でラスタカラーが使われた事が非常に悲しく思った。ボブはワンラブピースコンサートの前に銃撃された。ただ彼はジャマイカの二大政党にはどちらにも肩入れしてない。ただあまりにも影響力が強過ぎてしまっただけだ。ワンラブピースコンサートで党首二人を呼んで握手させた。ただそれだけだ。音楽だけは誰に対しても平等であって欲しい。ボブの心はピースしかなかったただそれだけだ。チェゲバラとボブは全く違う。チェゲバラは革命家だがボブはピースマン。チェゲバラは武器を持って革命した。ボブは武器を持って歌を歌ってない。だからチェゲバラとボブが一緒にされる事は心外だ。アーティストであるならば、まず誰もが口ずさめるようなヒット曲を作る事に注力してください。派手な選挙活動ではなくてボブのように歌で詩で人々の心を掴んでください。陰謀論を説くような幼稚なリーダーにならないでください。ボブはボブでしかない。であるならば、あなたはあなたでいてください。ミュージシャンは政治に首を突っ込んでも、政治家になっては駄目なんだ。音楽家でお願いします。僕達は日本人です。本気であるならば、ラスタカラーではなく。日本人が日本の政治を変えるのであれば、右でも左でも関係なく、日の丸の名の下で闘う事ではないでしょうか?」

誰とは言わない。

おれは彼は選挙活動の新しい見せ方を提案したという点において評価はできると思う。ただ、プロではない。経済がよくなる気がしない。

もし、都知事選で石田純一なんかが出てきたら、もう、東京を出たいと思う。この国で生きることが恥ずかしいと思わせないで欲しい。

日本会議の研究 (扶桑社新書)

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ひたすらに生きる。

映画のエンドロール。

キャスト、スタッフ、協力会社の名前が流れ、一番最後に彼の名前が映し出された。

映画監督になりたいと高校生の頃から言っていた、その彼の処女作が昨日公開された。

映画の内容は、おそらく様々な大人の意向が働くなかで、どこかに爪痕を残そうと前向きに頑張った意思を感じて、本編とは関係なく、心のなかで「監督!がんばれ!がんばれ!」と私情を挟みまくって応援してしまった。

そういう意味で手に汗握りながら迎えたエンディング、エンドロールで彼の名前を見て、図らずもいいおじさんなのだが、涙が溢れてしまった。

夢が叶うとはどういう気持ちなんだろう。

なりたいと強く願ったものになったあとに見える景色はどんなものなんだろう。

多くの人が思春期と呼ばれる時代に夢を語り、ああ私はきっと何者かになれるのかもしれないと思い、いつの間にか、流れの中で生きていく術を覚え、その中で自己を確立していく。

夢を叶えた人はきっと今、その先の夢を見ているように思う。そういう思考でなければ夢は叶わないと思う。

夢なんか見なくてもかまないと思う。夢を持つことは重要ではなく、夢がなくても生きていく強さを身に付けることの方が重要だと思う。

ただ彼の映画を見て、純粋に、自分が成し得なかった、夢を実現するという事を形にしていることに憧憬を覚える。

思春期を過ごした同級生というのはいい。

仲が良かろうが、顔見知り程度だろうが、活躍を知ると心の深部があの頃のように熱くなる。

もう測る物差しが違うのでなんとも言えないが、やっぱり勝ち負けで考えたりしてしまう。

おれの中では、永遠に悪友で永遠にライバルだ。

距離を離されたら焦るし、追い越したなと思ったらほくそ笑む。

それでいい。彼らはおれの指標なのだ。

今日の映画の監督、テレビ番組を作っているやつ、建築家になることを実現したやつ。

明後日、そんな夢を叶えた同級生3人と飲む。

夢を叶えていない俺はひたすらに生きるという事を語るんだと思う。

「ひたすらに生きる」

悪い言葉ではないかな。




雨上がりの初夏の夕暮れに思う。甲本ヒロトになりたい。

この気持ちはなんなのだろう。

落ち込む。

自分が今、停滞しているように強く思う。

自分のイヤなところ、ダメなところが全面的に出ていて、すごく落ち込む。

心がズン、と音をたててヘコんでいる。

聞こえている声を聞こえてないようなフリしたり、見えているもの見えていないフリしたり、自分に言い訳しながら人生に折り合いを付け始めている気がしてたまらなくイヤになる。

同じカテゴリーの人と話し、立場上偉そうにして、世間的に見れば大したことないのに大したことありそうな顔をして、自分のハリボテ感に涙が出てくる。

おれってもう終わってしまっているのかな。

人間は無限に成長期だと思っているけど、だからこそ、なにも成長していない自分に嫌気がさす。

嘘で塗り固めた砂上の楼閣。

吹けば飛ぶ。

吹こうとする人からは逃げている。

そんなことを強く思う。

前を向いている人、その人のその目を真っ直ぐ見ることができなくなっている。

人間は汚いが美しい。

その事実を疑うことはない。

そうじゃなければこんなクソ東京生きていられない。

ただ、自分は汚い。そんなことを思ってしまう。

どうしたんだろう。

愛じゃなくても恋じゃなくてもあなたを離したくはないし、言葉はいつも空回りするけど、日焼けした顔で笑っていたいし、心はいつもいい感じでいたい。

甲本ヒロトになりたい。

DUG OUT

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