我々はどこから来て、どこへ向かうのか。

関野吉晴さんの「カレーライスを一から作る」という映画を観てきた。

 

なにかを自分で一から作り出すということに関心を持っている友人に、たぶん好きだろうなと思いこんな映画があるよと教えたら、ぜひ行こうという話になりポレポレ東中野へ。

 

約束の時間を間違えて、遅れて待ち合わせ場所のポレポレ東中野上のカフェに入ると、お店が作ってくれたカレーライスを食している友人。私もすかさずお店が作ってくれたカレーライスを注文。誰がどう作ろうが、お店で出てきたカレーライスは基本的に美味しい。不味いカレーライスというものに出会う方が難しい。

 

お腹を満たし、いざ地下の映画館へ。

 

意外と混んでいることに驚いたが、せっかくだし一番前に座る。

 

関野吉晴ゼミの授業として、カレーの材料となるもの、米、肉類、じゃがいも、ニンジン、タマネギ、ウコン等々、塩に至るまでほぼ一年かけて学生たちが作り、最終的には自分達で作った器とスプーンで食すまでをまとめたドキュメンタリー。

 

自分の大学の時もこんな感じの友達いたなとそういう観点で観てもおもしろい。

 

映画のなかで、グレートジャーニー関野吉晴さんは話す。

 

「卒業してからもっとも大変になるであろう美大生に今から生きるための方法を学んで欲しい」

 

関野ゼミの学生は話す。

 

「食べるために育てたから殺していい、ペットとして育てたから殺さない、という人間が決めた中で判断するってどうなんだろう」

 

「化学肥料を使いたい」

 

屠殺場の人は話す。

 

「私はかわいそうだと思ったことは一度もありません。ペットの猫が死んだときは夜中2時に庭に埋めました。取り乱したんだと思います。」

 

カレーライスのなかに入っている自分で育て、絞めた鳥を食しながら学生は話す。

 

「パサパサしているが味はいい」

 

映画が終わると関野吉晴さんが登場し語る。

 

「自分で問いを立てて、自分で答えを見つける事が大切」

 

昔、文庫本の紙は何でできているのかについて疑問を持った学生が出版社に問い合わせるところから始まり、最終的には原産地の環境問題にまでたどり着いたとのこと。

 

自分自身で問いを立て続け、その問いに対して体感することで答えを出し続けてきたであろうグレートジャーニーがいうと重みが違う。

 

彼の美大生に体感して欲しいという話を聞いて、話題になったがこの前NHKスペシャルでやっていた宮崎駿特集のあのシーンを思い出した。

 

新しいCGの技術が出来たと、意気揚々と宮崎駿に見せるdwango川上さん。

 

頭を足のようにして動くゾンビのようなCGを見たあとに、生命に対する尊厳を全く感じない、僕はこれを採用しようとは全く思わない。極めて不愉快です。と感想を述べる宮崎駿

 

困った顔で、これは実験なので、と釈明する川上さん。

 

どこに行きたいんですか、と追い討ちをかける鈴木敏夫

 

人間と同じような絵がかける機械を作りたい、と答えるdwangoの人。

 

ここに無いものはおそらく「体感」と「思想」なのではないだろうか。

 

後生に残る芸術は、作り手の体感や思想を内包しており、単純なカッコいいだけのものに芸術的な価値は無いと思う。

 

芸術家は体感すること、考え抜くことで、その作品に見た目以上の価値をもたらすのではないだろうか。

 

例えば、本物の職人さんが作る椅子と、大量生産で売るためにデザインを考えられた椅子とでは価値が違う。職人が人が座るということはどういうことなのかと徹底して考えたその思想の結果としてデザインし作り出された椅子には見た目を越えた、人間への優しさが内包されてそれが価値になっているように思う。

 

優しさ、それが価値になり、それに洗練されたデザインがのり、それが芸術となるのではないか。

 

音楽を考えたときに、プレスリーが初めて録音した曲はザッツオーライママ。お母さんへのプレゼントとして録音したらしい。そこにはお母さんという存在への体感と優しさがあり、だから後生にロックンロールは残った。

 

dwangoのCGに体感も思想もはなく、ただ真新しいだけで、そこに宮崎駿は怒ったのではないだろうか。

 

カッコいいだけのものに意味はなく、それをなぜ形作ったかに意味がある。

 

友人は、食べるということにどんな意味があるのか、我々は何のために食べるのかを考えたいと言っていた。

 

細胞が入れ替わって生きている生き物としての人間は、その細胞を作るために食べることが必要なのだが、ではなぜ何種類も料理が必要で味が必要なのか、この栄養がいいと言うが、何のためにそれが必要なのか、そういうことをもっと知りたいと言っていた。

 

それはすごく大切なことのように感じる。

 

「食べるために育てたから殺していい、ペットとして育てたから殺さない、という人間が決めた中で判断するってどうなんだろう」

という学生の言葉。

 

育ててきた鳥を本当に殺すのか、生殺与奪の権利を保有するかのような議論の中でふと出てきた言葉。

 

人間はなんて偉そうなんだと気づかされた言葉。

 

ただ、それは必要だからであって、では何で必要なのか、その事を理解することで、それは偉そうなのではなく、必要に迫られているからこその不可避の行動として理解することで人間と食べ物は同じ土俵に立つような気がする。

 

人間が偉い偉いと勘違いするのでなく、生き物に貴賤はなく、すべてを平等にとらえるために、食べるということを考えることは大切なことなのかもしれない。

 

一からすべてを作り出したカレーライス。はっきりいうと本当に不味そうだった。

 

お店で出てきたら、一口食べて残すような気がするし、とりあえず出された瞬間にこれカレーライスですかと聞くと思う。

  

お店の美味しいカレーライスから、ここまで考えを深めることはないのだが、美味しいということに対して疑問を感じ、なぜ美味しいのか、なぜ美味しい必要があるのか、そういうことを日々突き詰めて考えていく、すべてがそうで、きっとそれが学ぶということなんだろうし、それが生きる力になるんだろうと思う。

 

問いをたてる。

 

そしてその答えを考える。

 

一年かけて作った珍しく不味そうなカレーライス。

 

ただ、そのカレーライス1つから、ここまで沢山のことを考えさせたこの授業、このドキュメンタリーは素晴らしいと思う。

 

学生の心も私の心も満腹だ。

 

グレートジャーニー探検記

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