精神と時の部屋に入った私は人について考えた。

 

クリスチャン・ボルタンスキー -アニミタス―さざめく亡霊たち-

クリスチャン・ボルタンスキー -アニミタス―さざめく亡霊たち-

 

 

バイ!そろそろ終わってしまう!ということで、目黒にある庭園美術館でクリスチャン・ボルタンスキーの展覧会をいそいそと観てきた。

 

展覧会名は「アニミタス~さざめく亡霊たち」。

 

アニミタスとは、(小さな魂)という意味のスペイン語のようだが、その展覧会のタイトル通り、生と死を感じさせる展示だった。

 

順路通りに廻り始め最初の部屋に入ると鏡が。若干ナルシスト気味の私は鏡があると自分を見てしまうのだが、そうするとなにやら女性のかすかな声が聞こえだす。あっ!鏡見てるのばれた!ナルシストって陰口言われたかも!!と、ちょっと焦るがよく聞くと壁から女性の声でささやきが聞こえる。なるほど、演出。さっそく亡霊が囁き始めたのだ。これはもっと暗く、人の少ない時間に来るべきだったなと思いつつ、あらためて鏡を見直し、心を整えて館を廻る。

 

ささやきがついてくるような感覚になる。怖いぜ亡霊。明るくてよかった。

 

2階に上がると囁きではなく、なにやら一定のリズムで音が聞こえてくる。

 

音に誘われて部屋にはいると、そこは心臓の音を暗い部屋でながし続け、その音に合わせて赤色電球が点滅する作品の世界。世界中の人々の心臓の音をサンプリングして永遠に繋ぎ合わせている。

 

当然のように、人によって心臓の鼓動が違う。早い音、遅い音、大きい音、ちいさい音、リズミカルな音、不整脈かと疑いたくなるような音、力強い音、弱々しい音。真っ暗な部屋のなかで、音に合わせて点滅する赤色電球の光が部屋にかすかな光を届けている。老若男女、なもない人々の心臓の音。もし、この音が止まり、この赤色の光が届かなくなればこの人は死ぬ。生きているということはなんとシンプルなのだろうか。

 

なんとなく、この部屋でぼーっとしてしまう。

 

他の観覧者は入れ替わり立ち替わりこの部屋に入ってくるが、私はひたすら動かない。

 

動かない。動かない。動かない。

 

というより、動けない。

 

母体の中はこういう感覚なんだろうという気持ちよさも若干あるものの、なにやらものすごく不安な気持ちになっている。

 

この不安に襲われる感覚はなんなのだろう。

 

この作品が、誰しもが唯一無二の「人」という存在であるということに対しての明確な証拠の提示であるとともに、シンプルに生きてシンプルに死ぬという、時間とはこの鼓動であるという、もうひとつの明確な真実をこのシンプルな仕掛けのなかでいきなり理解させられ、死ぬということが目の前に立ち上がった。「人」の貴重価値に感動するとともに、「人」は死ぬという事実に直面させられるこの部屋を私はまさに「精神と時の部屋」と名付けたい。ここで座禅を組んだらたぶんなにかが開ける。

 

心臓の鼓動を後にしててくてく第2展示場まで歩く。

 

今回のメインである「アニミタス」「ささやきの森」にたどり着いた。

 

中に入ると藁の匂いとともに風鈴の音が聞こえてくる。

 

両面が映る画面の片側は砂漠に何百という風鈴が揺らめいている映像。もう片面は山の中腹、森の中で数百の風鈴が揺れている映像。

 

これはなんだろう。

 

理解する前に、感じてみようと思い、イスに座り、じっと森の映像を見てみる。

 

なにかを表しているとしても理解はできないのだが、ただひたすらに気持ちがいい。ここならずっといられると言っていた友達がいたが理解できる。心が空になる。空になることを許している。そういう空間だと思う。

 

あとでボルタンスキーのインタビューを読むと、砂漠は死者を悼らう場所で森は人々が願いを祈る場所だとのこと。

 

作品よりも伝承の方が残るとのこと。

 

ふむ。話がデカイがそういう考えもあるねと思わせる。

 

存在しているらしいということ、かつて存在していたらしいということ、そういうことを語る伝承って大切な価値があると思う。「見た」ではなく、人々が知っているということの価値。それを創造してるのかな。

 

先程の心臓の音により不安に駆られた心も、神話伝承の世界の中でひたすらに癒されてこの展覧会は終わる。

 

彼のインタビュー動画を見ると、最後にかれは言っている。

 

誰もが尊いが、誰もが三代で忘れ去られる。

人類は分類することで人を殺してきた。

 

確かにな。なんて思いながら帰り道のドトールでコーヒーを飲んでいる。

 

この店にいる人たちも全員それぞれの心臓の音があると思うと、なんだか他人が立体的に見えてくる。

 

ボルタンスキー。

 

みんな人生の早いうちにあの部屋に1度は放り込まれた方がいいのかもしれない。

 

そうすると、少しはまともな世の中になるかもしれないななんてことを考えながら、私の休日は終わろうとしているのでした。