誕生日にて
まだまだ暑いんですが、日本人が昔決めた暦の上では立秋で、寒蝉が鳴き、なんだか夕方が寂しくて、無駄に泣いてみようかな、なんて考えてみたりして、無理やり「君の膵臓を食べたい」見てみたり、旬の魚はイナダと聞いて、でもブリになるのを待ちたいと思ったり、今度は冬瓜だと聞いて、そもそも食べ方がわからないと気づいたり、ていうか、東京で寒蝉の声なんて聞いていないと思ったり。ん?じゃあ泣きたい気持ちは何だったんだと思ったり、そんな感じで都心では慌ただしく季節が過ぎていきます。
日本人は昔、季節を24節72候に区切って移り変わりを感じたらしいです。
今日は「寒蝉鳴」という季節らしい。
ただの数字の羅列よりも、そういうセンスはすごく好きで、外国のことをよく知らないだけだとも思いますが、日本人の日常を慈しむ感覚が、豊かだなと思います。
暦の上では季節の変わり目である今日、あなたの誕生日を知ってから、毎年この日になるとそんなことをなんだか考える瞬間が必ずあって、その時間は1年間のなかで好きな時間の1つです。
日常を切り取ることをに成功した日本人と、世の中の些末なそれでいて美しかったり大切だったりするものに目を向けるあなたと、日本人とあなたという2つの事を同時に思う事はおもしろいものです。
食べるという事に視点を置き、それを切り口としてその様々な可能性を拡げて考えていこうとするあなたの姿勢は、その世界やそういう生き方を知らない私にとって、本当はすごく危なっかしいと思うんです。
一方で、あなたからの日々のメッセージはすごく心をざわつかせます。
あなたがどうやってご飯を食べられるようになるのか、それがすごく楽しみで、そこに新しい日本人としての芸術的な生き方の可能性を感じざるを得ないのです。
司馬史観が強い私は常々「生き方は芸術作品になる」と思っています。
ものではなく、思想信条の表現媒体としての何かが、それに触れた人を感動させ、心の中に何かしら襞を作り、沈殿物を残し、いつかの触媒となるものを残す。
それが芸術作品だというように私は考えています。
ものでも、食べ物でも、音楽でも、思想でも、全てそうだと思います。
そしてそれを作り出す作り手は、やさしくなければ芸術作品は作り出せない、芸術家にはなれないというのが、私が思う作り手、つまり、芸術家の必須条件です。
誰よりもあたたかい眼差しを持つあなたは、芸術家になる資格を充分備えていると思います。あなたのその眼差しでこれからどんな作品を作り出すのか、史上最高の受け手を目指す私は、あなたがこれからの生き方として何を生み出すのか、しっかりと見届けたいと思っています。
私の信条としては、「飲み屋で隣に座ってる酔っぱらいの戯言が、よく聞くとたまに真理を言い当てている」みたいな(この石野卓球の発言すごく好き)そんなスタンスなので、基本的に外してる事も多く、真面目ではないので聞き流してもらっていいんです笑
とりあえず、長くなりましたが、お誕生日おめでとうございます。
いつまでもあなたの味方です。
牯嶺街少年殺人事件 を観て台湾に思いを馳せる。(ネタバレあり)
映画、牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件を観ました。
4時間という上映時間の長さながら、その面白さの噂はだいぶ前から聞いており、いつか観てみたいと思いつつ、ただ時は過ぎ、マーティン・スコセッシの会社からデジルリマスタ版で25年ぶりについにリバイバル上映ということで雨のなか新宿武蔵野館へ。
うん。さすがマーティン・スコセッシ、持ってるお金とセンスが違いますね。感謝の印に沈黙もう1回観ようかな、なんてこと考えながら、雨のなか傘をさし、駅へ向かいます。
こういう映画を観ることができることが東京の一番いいところだな~と思いつつ副都心線は新宿を目指します。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
本当は先週観ようかと思っていましたが、当日券は完売しており観ることが出来ず今週へ持ち越しとなったのです。
今回はちゃんと前日に予約しましたがそれでも残り数席というのは注目度の高さが伺い知れますね。
新宿武蔵野館に到着すると中がリフォームされており、かなりキレイになっていることにまず驚きました。小汚ない昔ながらの映画館だったのが、かなり今風のミニシアターという感じに変わっていました。ブランコまであったよ。笑
引っ越してから新宿には全然来てなかったんだな。
座席についてあらためて4時間か~と考えると朝の5時くらいまでアホみたいに飲んでいたことが悔やまれます。体力的に寝てしまいそうな不安を抱えつつ映画が始まりました。
昨晩の飲み会。おれはなんであんな無駄な時間を。と後悔しても時すでに遅く、暗転して、開始10分で案の定すさまじい眠気に襲われる。
しかし、そこは気合いでがまん。がまん。がまん。。。ん。。だんだんなにかに捕らわれはじめる不思議な感覚。。なんだこの感覚。
そうなんです。映画が終わり、まず感じたことは4時間の長さを全く感じさせない、というか、途中から時間の感覚が無くなりました。それくらいに60年代の台湾に没入しました。
話の筋は簡単で、少年の恋愛ものと不良の抗争を軸に、60年代当時の台湾の不安定な社会を背景にして進んでいきます。
台湾は、戦前はオランダ人に、戦中は日本人に、戦後は蒋介石率いる中国国民党の外省人たちに支配され続けた国。
戦後の蒋介石の時代には元々いた台湾人(内省人)は、数でいったら圧倒的に少ない外省人に支配され屈辱の日々を送っていたらしいですね。
内省人が国をおさめることが出来るようになったのは蒋介石、蒋経国を経て李登輝になる90年代になってから。でも、李登輝も中国国民党だから、実際はホントに最近になってからなのかな。
主人公たちは日本が占領していた時代に建てた日本式の家屋に住んでいます。
ちなみに主人公の寝る場所は押し入れのなか。
日本は占領していた時代に台湾のインフラを整えたりして、かなりちゃんとした政策をおこなったらしいですね。
司馬遼太郎曰く、植民地化をすることは国策のなかで最大の愚行だが、いい点を一点だけあげるとするとその国が持つ最先端の技術が投入されるという面があるとのこと。だから台湾の人は今でもけっこう親日らしいです。東日本大震災の時には多額の寄付をしてくれましたよね。
でも、歴史を調べてみると、たぶん中国よりはましっていう感覚もあるんじゃないかと思いますが。
とにかく、そんな占領され続けた台湾の人々がそれまでどれだけ苦労していたのか、今となっては想像するしかないのですが、恐らく今の北朝鮮みたいな感じではないでしょうか。と、そんな歴史を知っているとこの映画への印象はかなり変わると思います。
主人公のお父さんへの圧力。国歌斉唱に対しての人々の態度。なにより全編を漂う虚ろな雰囲気。抑圧された空間のうわばみみたいな中から産まれてきたチームを組んだ不良たち。全ては台湾のその当時の時代の産物。
この映画の大切な要素は光です。
逆に言うと闇なのかな?
その光は懐中電灯の光であって、決して太陽の光ではありません。
だから闇がすごく深い。
少年の通う学校も夜間だし。闇へのこだわりは強いと思いました。
たぶん、少年が握りしめている盗んだ懐中電灯の光は少年の未来を表していて、その光が照らす小さな範囲しか見えていない思春期の少年の気持ちと不安定な未来、さらに恐らく60年代の台湾の人たち(内省人たち)の気持ちを懐中電灯1つで表現しているんだと思います。
また他にも少年達が握りしめているのが日本人が残していった刀。
だからこそ、懐中電灯を置き、その刀で女の子を殺してこの映画はエンディングを迎えます。
殺され続け、闇から抜け出せない当時の台湾の状況を懐中電灯と刀に置き換えて、一人の女性が死ぬということを比喩としてけっきょく闇から抜け出せない台湾人を表現しているいるんだと思います。最初と最後の合格発表も抜け出せない現実を表してたのかな。最後のラジオから流れてくる合格発表は胸が苦しくなります。
そういった社会情勢のメタファーみたいなものと平行して、不良だろうがなんだろうが少年達の純粋な気持ちもこの映画には溢れています。
あんなにまっすぐに、君を守りたい、なんて37才のおっさんには言えません。言えるのは田原俊彦くらいです。
大切な友達のために泣くことも、恋人のために友人と喧嘩することも、レコードにかじりついて必死で歌詞を聞き取ろうとすることも、もうありません。
眩しかったです。
子どもは時代の鏡であると同時に時代の光なんですねきっと。
そしてこの映画の肝は音楽で、エルビス・プレスリーを聞いて、あんなに切ない気持ちになったことは今までにない音楽体験でした。
この映画、すごくリアルなんだと思います。
実際の事件が題材だからそりゃそうなんですが。
なにか派手な演出があるわけでもなく、少年と少女とそれを取り巻く世界を淡々と見せているだけ、それだけで画面のなかに引き込まれていきます。監督であるエドワードヤンに乾杯です。
ちなみに今の台湾はどうなんでしょうか。けっきょく中国ってことになったままの台湾の人にとって、光はみえているんでしょうか。まーだいぶ状況は違うと思いますが。
再来週はその台湾に行きます。
牯嶺街少年殺人事件の時代から50年過ぎた今の台湾の空気を吸ってみようと思います。
精神と時の部屋に入った私は人について考えた。
クリスチャン・ボルタンスキー -アニミタス―さざめく亡霊たち-
- 作者: クリスチャン・ボルタンスキー,祖父江慎,畠山直哉
- 出版社/メーカー: パイインターナショナル
- 発売日: 2017/01/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ヤバイ!そろそろ終わってしまう!ということで、目黒にある庭園美術館でクリスチャン・ボルタンスキーの展覧会をいそいそと観てきた。
展覧会名は「アニミタス~さざめく亡霊たち」。
アニミタスとは、(小さな魂)という意味のスペイン語のようだが、その展覧会のタイトル通り、生と死を感じさせる展示だった。
順路通りに廻り始め最初の部屋に入ると鏡が。若干ナルシスト気味の私は鏡があると自分を見てしまうのだが、そうするとなにやら女性のかすかな声が聞こえだす。あっ!鏡見てるのばれた!ナルシストって陰口言われたかも!!と、ちょっと焦るがよく聞くと壁から女性の声でささやきが聞こえる。なるほど、演出。さっそく亡霊が囁き始めたのだ。これはもっと暗く、人の少ない時間に来るべきだったなと思いつつ、あらためて鏡を見直し、心を整えて館を廻る。
ささやきがついてくるような感覚になる。怖いぜ亡霊。明るくてよかった。
2階に上がると囁きではなく、なにやら一定のリズムで音が聞こえてくる。
音に誘われて部屋にはいると、そこは心臓の音を暗い部屋でながし続け、その音に合わせて赤色電球が点滅する作品の世界。世界中の人々の心臓の音をサンプリングして永遠に繋ぎ合わせている。
当然のように、人によって心臓の鼓動が違う。早い音、遅い音、大きい音、ちいさい音、リズミカルな音、不整脈かと疑いたくなるような音、力強い音、弱々しい音。真っ暗な部屋のなかで、音に合わせて点滅する赤色電球の光が部屋にかすかな光を届けている。老若男女、なもない人々の心臓の音。もし、この音が止まり、この赤色の光が届かなくなればこの人は死ぬ。生きているということはなんとシンプルなのだろうか。
なんとなく、この部屋でぼーっとしてしまう。
他の観覧者は入れ替わり立ち替わりこの部屋に入ってくるが、私はひたすら動かない。
動かない。動かない。動かない。
というより、動けない。
母体の中はこういう感覚なんだろうという気持ちよさも若干あるものの、なにやらものすごく不安な気持ちになっている。
この不安に襲われる感覚はなんなのだろう。
この作品が、誰しもが唯一無二の「人」という存在であるということに対しての明確な証拠の提示であるとともに、シンプルに生きてシンプルに死ぬという、時間とはこの鼓動であるという、もうひとつの明確な真実をこのシンプルな仕掛けのなかでいきなり理解させられ、死ぬということが目の前に立ち上がった。「人」の貴重価値に感動するとともに、「人」は死ぬという事実に直面させられるこの部屋を私はまさに「精神と時の部屋」と名付けたい。ここで座禅を組んだらたぶんなにかが開ける。
心臓の鼓動を後にしててくてく第2展示場まで歩く。
今回のメインである「アニミタス」「ささやきの森」にたどり着いた。
中に入ると藁の匂いとともに風鈴の音が聞こえてくる。
両面が映る画面の片側は砂漠に何百という風鈴が揺らめいている映像。もう片面は山の中腹、森の中で数百の風鈴が揺れている映像。
これはなんだろう。
理解する前に、感じてみようと思い、イスに座り、じっと森の映像を見てみる。
なにかを表しているとしても理解はできないのだが、ただひたすらに気持ちがいい。ここならずっといられると言っていた友達がいたが理解できる。心が空になる。空になることを許している。そういう空間だと思う。
あとでボルタンスキーのインタビューを読むと、砂漠は死者を悼らう場所で森は人々が願いを祈る場所だとのこと。
作品よりも伝承の方が残るとのこと。
ふむ。話がデカイがそういう考えもあるねと思わせる。
存在しているらしいということ、かつて存在していたらしいということ、そういうことを語る伝承って大切な価値があると思う。「見た」ではなく、人々が知っているということの価値。それを創造してるのかな。
先程の心臓の音により不安に駆られた心も、神話伝承の世界の中でひたすらに癒されてこの展覧会は終わる。
彼のインタビュー動画を見ると、最後にかれは言っている。
誰もが尊いが、誰もが三代で忘れ去られる。
人類は分類することで人を殺してきた。
確かにな。なんて思いながら帰り道のドトールでコーヒーを飲んでいる。
この店にいる人たちも全員それぞれの心臓の音があると思うと、なんだか他人が立体的に見えてくる。
ボルタンスキー。
みんな人生の早いうちにあの部屋に1度は放り込まれた方がいいのかもしれない。
そうすると、少しはまともな世の中になるかもしれないななんてことを考えながら、私の休日は終わろうとしているのでした。
我々はどこから来て、どこへ向かうのか。
関野吉晴さんの「カレーライスを一から作る」という映画を観てきた。
なにかを自分で一から作り出すということに関心を持っている友人に、たぶん好きだろうなと思いこんな映画があるよと教えたら、ぜひ行こうという話になりポレポレ東中野へ。
約束の時間を間違えて、遅れて待ち合わせ場所のポレポレ東中野上のカフェに入ると、お店が作ってくれたカレーライスを食している友人。私もすかさずお店が作ってくれたカレーライスを注文。誰がどう作ろうが、お店で出てきたカレーライスは基本的に美味しい。不味いカレーライスというものに出会う方が難しい。
お腹を満たし、いざ地下の映画館へ。
意外と混んでいることに驚いたが、せっかくだし一番前に座る。
関野吉晴ゼミの授業として、カレーの材料となるもの、米、肉類、じゃがいも、ニンジン、タマネギ、ウコン等々、塩に至るまでほぼ一年かけて学生たちが作り、最終的には自分達で作った器とスプーンで食すまでをまとめたドキュメンタリー。
自分の大学の時もこんな感じの友達いたなとそういう観点で観てもおもしろい。
映画のなかで、グレートジャーニー関野吉晴さんは話す。
「卒業してからもっとも大変になるであろう美大生に今から生きるための方法を学んで欲しい」
関野ゼミの学生は話す。
「食べるために育てたから殺していい、ペットとして育てたから殺さない、という人間が決めた中で判断するってどうなんだろう」
「化学肥料を使いたい」
屠殺場の人は話す。
「私はかわいそうだと思ったことは一度もありません。ペットの猫が死んだときは夜中2時に庭に埋めました。取り乱したんだと思います。」
カレーライスのなかに入っている自分で育て、絞めた鳥を食しながら学生は話す。
「パサパサしているが味はいい」
映画が終わると関野吉晴さんが登場し語る。
「自分で問いを立てて、自分で答えを見つける事が大切」
昔、文庫本の紙は何でできているのかについて疑問を持った学生が出版社に問い合わせるところから始まり、最終的には原産地の環境問題にまでたどり着いたとのこと。
自分自身で問いを立て続け、その問いに対して体感することで答えを出し続けてきたであろうグレートジャーニーがいうと重みが違う。
彼の美大生に体感して欲しいという話を聞いて、話題になったがこの前NHKスペシャルでやっていた宮崎駿特集のあのシーンを思い出した。
新しいCGの技術が出来たと、意気揚々と宮崎駿に見せるdwango川上さん。
頭を足のようにして動くゾンビのようなCGを見たあとに、生命に対する尊厳を全く感じない、僕はこれを採用しようとは全く思わない。極めて不愉快です。と感想を述べる宮崎駿。
困った顔で、これは実験なので、と釈明する川上さん。
どこに行きたいんですか、と追い討ちをかける鈴木敏夫。
人間と同じような絵がかける機械を作りたい、と答えるdwangoの人。
ここに無いものはおそらく「体感」と「思想」なのではないだろうか。
後生に残る芸術は、作り手の体感や思想を内包しており、単純なカッコいいだけのものに芸術的な価値は無いと思う。
芸術家は体感すること、考え抜くことで、その作品に見た目以上の価値をもたらすのではないだろうか。
例えば、本物の職人さんが作る椅子と、大量生産で売るためにデザインを考えられた椅子とでは価値が違う。職人が人が座るということはどういうことなのかと徹底して考えたその思想の結果としてデザインし作り出された椅子には見た目を越えた、人間への優しさが内包されてそれが価値になっているように思う。
優しさ、それが価値になり、それに洗練されたデザインがのり、それが芸術となるのではないか。
音楽を考えたときに、プレスリーが初めて録音した曲はザッツオーライママ。お母さんへのプレゼントとして録音したらしい。そこにはお母さんという存在への体感と優しさがあり、だから後生にロックンロールは残った。
dwangoのCGに体感も思想もはなく、ただ真新しいだけで、そこに宮崎駿は怒ったのではないだろうか。
カッコいいだけのものに意味はなく、それをなぜ形作ったかに意味がある。
友人は、食べるということにどんな意味があるのか、我々は何のために食べるのかを考えたいと言っていた。
細胞が入れ替わって生きている生き物としての人間は、その細胞を作るために食べることが必要なのだが、ではなぜ何種類も料理が必要で味が必要なのか、この栄養がいいと言うが、何のためにそれが必要なのか、そういうことをもっと知りたいと言っていた。
それはすごく大切なことのように感じる。
「食べるために育てたから殺していい、ペットとして育てたから殺さない、という人間が決めた中で判断するってどうなんだろう」
という学生の言葉。
育ててきた鳥を本当に殺すのか、生殺与奪の権利を保有するかのような議論の中でふと出てきた言葉。
人間はなんて偉そうなんだと気づかされた言葉。
ただ、それは必要だからであって、では何で必要なのか、その事を理解することで、それは偉そうなのではなく、必要に迫られているからこその不可避の行動として理解することで人間と食べ物は同じ土俵に立つような気がする。
人間が偉い偉いと勘違いするのでなく、生き物に貴賤はなく、すべてを平等にとらえるために、食べるということを考えることは大切なことなのかもしれない。
一からすべてを作り出したカレーライス。はっきりいうと本当に不味そうだった。
お店で出てきたら、一口食べて残すような気がするし、とりあえず出された瞬間にこれカレーライスですかと聞くと思う。
お店の美味しいカレーライスから、ここまで考えを深めることはないのだが、美味しいということに対して疑問を感じ、なぜ美味しいのか、なぜ美味しい必要があるのか、そういうことを日々突き詰めて考えていく、すべてがそうで、きっとそれが学ぶということなんだろうし、それが生きる力になるんだろうと思う。
問いをたてる。
そしてその答えを考える。
一年かけて作った珍しく不味そうなカレーライス。
ただ、そのカレーライス1つから、ここまで沢山のことを考えさせたこの授業、このドキュメンタリーは素晴らしいと思う。
学生の心も私の心も満腹だ。
子どもの時間
子ども達に会ってきた。
3歳と5ヶ月になる息子。
生後5ヶ月の娘。
純粋であることの怖さと美しさを併せ持つことが子どもの特徴で、その純心さに邪心だらけの大人な自分はの心がどんどん洗われていく事を体感した。
大人ができて当然のことが出来ずに、大人が出来なくなってしまったことを平然とこなす息子。
この子をおんぶして、札幌駅からすすきのの交差点までてくてく歩き、背中から大きな声で、「ケンタッキーはおいしいぞ、ほっぺたが落ちそうだ」と歌いたい続ける息子の声が聞こえる。幼稚園の帰りに迎えに行き、水族館に行った帰り道。ケンタッキーが食べたいと、せっかく札幌まで来たのだからそんなものは微塵も食べたくなかったが、そんな歌まで歌われたら行く以外に選択肢はなく、夕暮れに染まる札幌の街で、周囲の微笑ましいと感じてくれているのか、嘲笑なのか、様々な笑い顔を正面で受け止めて、息子と二人、てくてく歩く。
初めての二人だけで外出。
東京で、ずっと思い描いていた二人だけの旅。
本格的な旅に出るのはまだまだ先だが、まず第一歩は隣り町の水族館。
魚がさわれるコーナーで、怖いからとヒトデしか触らずに、お父さんはヤドカリ触ってとよくわからないおねだりをされて、普段なら触りたくもないが、臆病者だと思われたくはなく、息子の前で張り切る父親とはこういうものかと思いつつ、平気な顔してヤドカリを触る。満足そうな息子の顔を見ることが、何よりも嬉しく思う。手が生臭くなることなんてなんてことはない。
赤ちゃんの時から絵本だけはずっと読んできた。
そのかいあってか、おそらく3歳児としては語彙力が豊富な息子。
花火を見たときに、沢山の色が夜空を染めているねと言った時はその詩的な表現に驚いた。
お母さんに怒られて、ごめんなさい、もうしません、絶対にしませんから許してください。と、ひたすらに謝り、許されたとわかった瞬間にイエーイとはしゃぎだす息子。
お母さんの機嫌が悪いと思うと、お母さんかわいいね、お姫様みたいだね。とすかさず機嫌を取り出す息子。
一緒に住んでいないのに、性格は今のところ自分にそっくりで、人格とは環境が決めると思っていたが、どうやらDNAの力は凄まじいらしいと、将来を暗示させ不安を感じさせる息子。
家では久しぶりの再会なので、ひたすらに甘えてくる姿しか見せず、幼稚園ではちゃんとできているのか不安になり、こっそり覗きに行くと、意外にも大人しく席に座り、ちゃんと先生の言うことを聞いていた。ただ、出欠の時に、名前を呼ばれてみんな、はいっと片手を上げてお行儀よく返事をしていたが、一人だけ両手を上げて、にゃー、と返事をしているところなんかは、授業中になんとか笑いを取ろうと常にタイミングを見計らっていた自分を思い出す。
家の近所のセイコーマートの前にあるベンチに座りながら、のんびりしましょうよと言う。
ガチャガチャの前を通るときは必ずおねだりさせるので最早恐怖。
昆虫が大好きで、お父さん虫見つけてと言うので、蟻がいるよと教えてあげると、すかさず踏み殺し、蟻大作戦なんだよと、ホロコーストを思い出させて、ユダヤ人が聞いたら激怒しそうな事を言う。
恐竜が好きすぎるので、ひょっとしたらいけるかもと、シンゴジラを観に行ったが、ゴジラの第一形態をみて、あの恐竜だるんだるんだね、と巧みな描写を口走る。さすがに一時間がげんかいだったが初めての映画がシンゴジラだったことをかれはこの先覚えているのだろうか気になるところだ。
この1週間、すごく沢山の思い出ができた。この子は今、生きていること、ただそれだけで楽しく、嬉しく、悲しく、悔しく、なんの打算もない感情を躊躇いなく表出させて時間を過ごしている。それは混じりっけのない、純粋な時間であり、この時間は、大人になった今ではもう感じることが出来ない美しい時間なんだと思う。その素敵な時間をほんの少しではあるが共有出来たことが自分のかけがえのないものになり、心の奥深くに沈殿していく。
背中にじっとりと汗をかき、やっとたどり着いたケンタッキーすすきの店。
美味しそうにチキンをほほ張りながら、ふと動きが止まり、小声で、このお店はトイレがあるかな、うんちがしたい、とこっそり教えてくれる。何となく、羞恥心は生まれてきているらしい。
息子をトイレにつれていき用を足させる。
昔はこういう親子連れを見ると大変そうだなと冷ややかな目で見ていたが、自分がその立場になってみると、粗相しないようにすることに夢中になるとともに、こういうところからも成長を感じて嬉しくなる。
この子がどういう大人になるのかわからないし、人生の責任は自分で負うべきで、最終的な決断はこの子に委ねるべきなので、最終局面で自分が口を出すことはないと思う。ただ、この子が望む人生を自分の都合で歩かせることが出来ないようなことはしたくないし、絶対にそうならないようにしたい。
誰かのために人生をかけられるかと聞かれたら、昔なら躊躇わずに無理だと思えたが、今は躊躇わずに、もちろん、と答えられる。
そこだけは純粋に思えるから子どもとは恐ろしい。すぐに泣き、すぐ体調を崩し、すぐ怪我をする。か弱く、庇護がなければ絶対に大人になることは出来ない。ただ、くそみたいな大人に対して、信じられない力を持つ偉大な存在でもあるのだなと、しみじみ感じた夏休みだった。
札幌はもう、少し肌寒くなってきている。
東京は大人の街で、自分はそこでもう少し戦おうと思う。
禅とはなにかをしろうとしたが、よくわからなかった。
なぜと訪ねられたら答えようもないのだが、昔から「禅」というものにひかれている。
何度か自分自身で体感してみようと思い、禅を組みにいったこともある。
始めて禅を組んだとき、早稲田にある曹洞宗のお寺さんだったように記憶しているが、夏のまだ暑い夕方から真っ暗にした部屋のなかで、壁に向かってひたすらに座禅を組んだ。
半目を開けながら、斜め下に視線を落とし、心のなかで数を数えるといいという教えのもと、ひたすらに数を数えた。
部屋の中には私とお坊さんともう一人の体験者のみ。
静かである。
早稲田という土地は元々そこまで騒々しい土地柄でもないが、それでも都内でここまで静かな空間があるということに少なからず驚いていた。
当時の私は心に様々な悩みごとを抱え、一方で、悩みがあるということはわかっているものの、それに対して考えるという時間がなく、ただただ壁のなかに押し込まれているように感じており、生きにくさだけを感じていた。
禅を組んでどれくらい時間が経過したのか、ふとからだが宙に浮くというか、楽になる瞬間があった。終わったあと、なぜだかわからないが、壁が無くなったような気持ちになり、すごく心が落ち着いた。
あの体験をもう一度味わいたく何度か禅を組んでみたが、特にそういったことは訪れない。彼女と組みにいったときは邪なことばかり頭に浮かんでしまい、なにも集中出来なかった。
鈴木大拙であれば、私がなんで禅にひきつけられるのか、あの楽になった体験はなんだったのか、その答えを教えてくれるのではないかと思い読んでみた。
正直に告白すると、内容を理解することが出来なかった。
難しい。
唯一心に落ちてきた言葉は、
「われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きるからである。われわれは理解の行為と意志の行為とを歴然と区別すべきである。前者は比較的価値の低いものだが、後者は一切である。」との言葉。
もう少し、鈴木大拙の本を読んでみたい。よくわからないながら、何かある気がしてならない。
ちなみに金沢にある、鈴木大拙記念館は最高に素晴らしい建築物。静的な心を建物にしたらああいう建物になるんだと思う。禅的空間に包まれたければ一人で行くといいと思う。
けっして彼女と行く場所ではない。
禅とは大前提として自己を見つめまくる行為ということで愛を確かめる事ではない。
餅は餅屋で、すべての道はプロに任せ、素人は黙って見ているべきなのだ。
- 作者: 菅野完
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2016/04/30
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