子どもの時間
子ども達に会ってきた。
3歳と5ヶ月になる息子。
生後5ヶ月の娘。
純粋であることの怖さと美しさを併せ持つことが子どもの特徴で、その純心さに邪心だらけの大人な自分はの心がどんどん洗われていく事を体感した。
大人ができて当然のことが出来ずに、大人が出来なくなってしまったことを平然とこなす息子。
この子をおんぶして、札幌駅からすすきのの交差点までてくてく歩き、背中から大きな声で、「ケンタッキーはおいしいぞ、ほっぺたが落ちそうだ」と歌いたい続ける息子の声が聞こえる。幼稚園の帰りに迎えに行き、水族館に行った帰り道。ケンタッキーが食べたいと、せっかく札幌まで来たのだからそんなものは微塵も食べたくなかったが、そんな歌まで歌われたら行く以外に選択肢はなく、夕暮れに染まる札幌の街で、周囲の微笑ましいと感じてくれているのか、嘲笑なのか、様々な笑い顔を正面で受け止めて、息子と二人、てくてく歩く。
初めての二人だけで外出。
東京で、ずっと思い描いていた二人だけの旅。
本格的な旅に出るのはまだまだ先だが、まず第一歩は隣り町の水族館。
魚がさわれるコーナーで、怖いからとヒトデしか触らずに、お父さんはヤドカリ触ってとよくわからないおねだりをされて、普段なら触りたくもないが、臆病者だと思われたくはなく、息子の前で張り切る父親とはこういうものかと思いつつ、平気な顔してヤドカリを触る。満足そうな息子の顔を見ることが、何よりも嬉しく思う。手が生臭くなることなんてなんてことはない。
赤ちゃんの時から絵本だけはずっと読んできた。
そのかいあってか、おそらく3歳児としては語彙力が豊富な息子。
花火を見たときに、沢山の色が夜空を染めているねと言った時はその詩的な表現に驚いた。
お母さんに怒られて、ごめんなさい、もうしません、絶対にしませんから許してください。と、ひたすらに謝り、許されたとわかった瞬間にイエーイとはしゃぎだす息子。
お母さんの機嫌が悪いと思うと、お母さんかわいいね、お姫様みたいだね。とすかさず機嫌を取り出す息子。
一緒に住んでいないのに、性格は今のところ自分にそっくりで、人格とは環境が決めると思っていたが、どうやらDNAの力は凄まじいらしいと、将来を暗示させ不安を感じさせる息子。
家では久しぶりの再会なので、ひたすらに甘えてくる姿しか見せず、幼稚園ではちゃんとできているのか不安になり、こっそり覗きに行くと、意外にも大人しく席に座り、ちゃんと先生の言うことを聞いていた。ただ、出欠の時に、名前を呼ばれてみんな、はいっと片手を上げてお行儀よく返事をしていたが、一人だけ両手を上げて、にゃー、と返事をしているところなんかは、授業中になんとか笑いを取ろうと常にタイミングを見計らっていた自分を思い出す。
家の近所のセイコーマートの前にあるベンチに座りながら、のんびりしましょうよと言う。
ガチャガチャの前を通るときは必ずおねだりさせるので最早恐怖。
昆虫が大好きで、お父さん虫見つけてと言うので、蟻がいるよと教えてあげると、すかさず踏み殺し、蟻大作戦なんだよと、ホロコーストを思い出させて、ユダヤ人が聞いたら激怒しそうな事を言う。
恐竜が好きすぎるので、ひょっとしたらいけるかもと、シンゴジラを観に行ったが、ゴジラの第一形態をみて、あの恐竜だるんだるんだね、と巧みな描写を口走る。さすがに一時間がげんかいだったが初めての映画がシンゴジラだったことをかれはこの先覚えているのだろうか気になるところだ。
この1週間、すごく沢山の思い出ができた。この子は今、生きていること、ただそれだけで楽しく、嬉しく、悲しく、悔しく、なんの打算もない感情を躊躇いなく表出させて時間を過ごしている。それは混じりっけのない、純粋な時間であり、この時間は、大人になった今ではもう感じることが出来ない美しい時間なんだと思う。その素敵な時間をほんの少しではあるが共有出来たことが自分のかけがえのないものになり、心の奥深くに沈殿していく。
背中にじっとりと汗をかき、やっとたどり着いたケンタッキーすすきの店。
美味しそうにチキンをほほ張りながら、ふと動きが止まり、小声で、このお店はトイレがあるかな、うんちがしたい、とこっそり教えてくれる。何となく、羞恥心は生まれてきているらしい。
息子をトイレにつれていき用を足させる。
昔はこういう親子連れを見ると大変そうだなと冷ややかな目で見ていたが、自分がその立場になってみると、粗相しないようにすることに夢中になるとともに、こういうところからも成長を感じて嬉しくなる。
この子がどういう大人になるのかわからないし、人生の責任は自分で負うべきで、最終的な決断はこの子に委ねるべきなので、最終局面で自分が口を出すことはないと思う。ただ、この子が望む人生を自分の都合で歩かせることが出来ないようなことはしたくないし、絶対にそうならないようにしたい。
誰かのために人生をかけられるかと聞かれたら、昔なら躊躇わずに無理だと思えたが、今は躊躇わずに、もちろん、と答えられる。
そこだけは純粋に思えるから子どもとは恐ろしい。すぐに泣き、すぐ体調を崩し、すぐ怪我をする。か弱く、庇護がなければ絶対に大人になることは出来ない。ただ、くそみたいな大人に対して、信じられない力を持つ偉大な存在でもあるのだなと、しみじみ感じた夏休みだった。
札幌はもう、少し肌寒くなってきている。
東京は大人の街で、自分はそこでもう少し戦おうと思う。